『五香宮の猫』を観た。
岡山県牛窓という極私的なローカルな場と、そこに棲まう猫の物語である。
五香宮という地味な神社を中心とした何ということもない日常と、猫をめぐる人間社会側のいざこざ(、というほど大袈裟なものではないさざ波程度)が淡々と描かれる。
想田和宏監督の作品はほぼ全て観ている。
自ら「観察映画」と銘打って、その方法論を用いた作品づくりを行なっている。
観察映画とは。
(1)被写体や題材に関するリサーチは行わない。
(2)被写体との撮影内容に関する打ち合わせは、(待ち合わせの時間と場所など以外は)原則行わない。
(3)台本は書かない。作品のテーマや落とし所も、撮影前やその最中に設定しない。行き当たりばったりでカメラを回し、予定調和を求めない。
(4)機動性を高め臨機応変に状況に即応するため、カメラは原則僕が回し、録音も自分で行う。
(5)必要ないかも?と思っても、カメラはなるべく長時間、あらゆる場面で回す。
(6)撮影は、「広く浅く」ではなく、「狭く深く」を心がける。「多角的な取材をしている」という幻想を演出するだけのアリバイ的な取材は慎む。
(7)編集作業でも、予めテーマを設定しない。
(8)ナレーション、説明テロップ、音楽を原則として使わない。それらの装置は、観客による能動的な観察の邪魔をしかねない。また、映像に対する解釈の幅を狭め、一義的で平坦にしてしまう嫌いがある。
(9)観客が十分に映像や音を観察できるよう、カットは長めに編集し、余白を残す。その場に居合わせたかのような臨場感や、時間の流れを大切にする。
(10)制作費は基本的に自社で出す。カネを出したら口も出したくなるのが人情だから、ヒモ付きの投資は一切受けない。作品の内容に干渉を受けない助成金を受けるのはアリ。
ご自身もいろんな著書とか記事でも書いてるが、これは別に想田監督の全くのオリジナル、というわけではなく、フレデリック・ワイズマンはじめ、偉大なるドキュメンタリー作家の膨大な作品群に依っている。
とはいえ従来のobservational cinema(ワイズマン自身はこの呼ばれ方を好まないようだが)であれば受け手によほどのリテラシーや受容性がないと、ひたすら味気ない映像の羅列で飽きがきてしまう。
(初期のワイズマンの作品、いくつか観たことあるが、いろんな世界の舞台裏が見られてミーハー的な野次馬欲がくすぐられる反面、起伏がなさ過ぎて不覚にも眠りこけてしまったことがある)
かといって、見る者を特定の方向に誘導するような過度な演出ももっと苦手だ。
で、想田監督の作風は、こうした偉大なる先達たちの方法論を受け継ぎつつ、ご自身なりにブラッシュアップしたものだ(と私は解釈している)。
ナレーションやテロップはつけないといった、その核は踏襲していて一見無機質だが、作品の完成にあたっては途方もない時間と労力と、念入りな操作が行われている。
一周回ってある意味、究極の作為、究極の演出である。
その作為があまり前面に出過ぎると鼻につくんだろうけど、
想田監督の作品はそこが精妙に調節されていて、違和感なくその世界の住人になることができる。
そしてあくまで解釈はこちらに委ねられている。その塩梅が心地よい。
この作品は監督ご夫妻がコロナ禍の只中に牛窓に移住した2021年から約2年間にわたってカメラを回し続けたという。
作品の最後、撮影終了から公開に至るこの短い間に、すでに鬼籍に入られた人たち、猫たちの姿が映し出された。
人生も猫生も儚い。
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