Profile

えんたく(Entak)

ちょっと長めのプロフィール


1979年2月23日 兵庫県神戸市生まれ

今はなき(!)明石幼児生活団へ。

 かわゆい。

その頃一つ上の従兄の影響でボールを蹴り始める。
三つ子の魂百まで。フットボールディエゴは生涯私の情熱であり続けることでしょう。

1985年4月 神戸市立西脇小学校入学

当時は極端に体が小さかった。おちゃらけた落ち着きのないガキであった。
成績はどれも並だったけど、三つ上の従兄の影響で小5から通い始めた塾のおかげで成績が急上昇する。なんだそういうゲームだったのね、とお勉強が楽勝モードになる(隣に住んでた従兄弟の影響ばっか受けてる)。

 左から2番目。ボールは友だち。

1991年4月 修道中学・高等学校入学

親に心配と迷惑かけまくりながら、中学から親元離れて広島で下宿生活
とっても勘違いした痛いヤツだったのである。今更ながら親に感謝。
サッカー部のかたわら、一人で暇を持て余してたので読書とラジオにハマる。
文学と哲学を手あたり次第読み漁る。毎日聴いてた「びしばし」の一文字弥太郎さん亡くなって悲しい…。

 中学修学旅行@ハウステンボス

1997年4月 早稲田大学第一文学部入学

 わかい。

ミーハーな田舎者だったので、花の都大東京ずっと憧れ続けていたのである。
サークルはピアノとサッカー。バイトはホテルのフロント、コンビニ、飛び込み営業、家庭教師、そして少年サッカーの指導員と雑多な感じ。
二年次から進んだ専攻は美術史。サークルとバイトと旅行と趣味であんま熱心に勉強した覚えはない。
でも、卒論見ていただいた丹尾安典先生にはお世話になったし、たまたま文化人類学の講義を受けた西江雅之先生にはとんでもなく衝撃受けた。
今でも西江先生は、ディエゴ・マラドーナ、クロード・レヴィ=ストロース、植芝盛平翁と並ぶ私の神だ。

 ©マチョ・イネのアフリカ日記

2001年4月 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科(ASAFAS)入学

 誰やこいつ。

西江先生の影響受けまくり、海外の好きな国行ってプラプラしつつそれが研究や仕事になるのなら何ておいしいんだ!と思ったのである。当時フィールドワークに対する認識はその程度のものだった。
ここで初めて学問のお作法を知る。

上の学年には中島岳志さんや小川さやかがいたり、同期には2021年にサントリー学芸賞を同時受賞することになる映像人類学の川瀬慈とかミャンマー研究の中西嘉宏がいた。みんな優秀すぎ。
(ちなみに中西くんに合コンで今の奥様に引き合わせたのは私である笑)

ASAFASでは加藤剛という偉大な人類学者・インドネシア研究者に師事する。
かのベネディクト・アンダーソンの愛弟子にして親友で、日本語版しか存在しない氏の自伝の翻訳を直々に託された人でもある。
(このお二人の共作たる本書籍は強烈にお薦めである)

入学1年目の後期からフィールドへ。シンガポールとマレーシアでサッカーしながら遊んでたら、加藤先生の導きで当時JICA専門家としてインドネシアのマカッサルに赴任していた岡本正明さん(現・京大教授)を紹介され、しばらく居候させてもらう。何となくウマがあって、結局この地を差し当たって自分のフィールドにする。

一旦帰国して準備を整えた後、2002年の12月から再びマカッサルへ(このときはさすがに一人暮らし)。
テーマはPSM Makassarという地元の名門サッカーチームのこと。
かの地では数万のスタジアムが毎度満員になるほど熱烈な支持を受けている。中央への敵愾心という意味では、日本でいうところの、一昔前の読売ジャイアンツに対する阪神タイガースのような位置づけか。
インドネシアのクラブチーム代表として、ジュビロ磐田や横浜F・マリノスと対戦経験もある。
当時すでにオランダ植民地期から設立以来90年近い歴史があって、政治家とかヤクザとかとの絡みもあって、何かと怪しげで魅力的な研究対象だったのである。
ここで一年弱、サッカーと研究だけしていれば事足りるという贅沢な日々を送る。今でもマカッサルは大事な故郷。

2003年11月に帰国して大急ぎで修論書き上げ、年明けに提出(一貫制博士課程の大学院だったので、正確には博士予備論文という)。

修論書いた後、院には残ったもののまた長期でフィールド行ける当てもなく、サッカーしたり、お酒強かったのでバーテンダー見習いみたいなことしつつ、今更ながら将来のことを考えてた。

その頃、サッカーの足しにもなるかなと思って、効率的な身体運用を学ぼうと内田樹先生のもと合気道を始める。今は住吉に凱風館という立派な道場があるけど、当時は奉職されていた神戸女学院大学の合気道部の活動の一環で、公営の体育館を利用してのお稽古。東京に移るまでの短い間だったけど、今でも帰省の際にはお邪魔して稽古に参加させてもらってる。普段は新宿の本部道場で続けてて、現在四段。

2006年4月 トヨタ財団入職

確か2005年の暮れだったか、院の研究室にトヨタ財団からの公募情報の紙が舞い込んだのである。
インドネシアでのフィールドワーク中に、出張で来てたトヨタ財団の人と話したことがあり、何となく親しみもあって、面接受けたら首尾よくプログラムオフィサー職で採用される。オフィスは西新宿の高層ビルの37階。

国内、そしてアジアを中心とする各国での研究や市民活動への助成を幅広く行ってる財団で、楽しんで過ごす。学生のときは自分がサラリーマンになるなんて想像もできなくて、そのために院にまで進んだのだけど、意外にも実務の適性それなりにあったのである。

トヨタという大企業の看板を背負った、そのまた収支相償(金銭的に儲けることが求められていない)が原則である公益財団法人。その助成金の配分を担うエラそうな職責なわけで、ある種恵まれた立場であったことは自覚している。
自らの裁量で毎月のようにいろんなとこ行かせてもらった。国内は北海道から沖縄まで。海外はアジア、オセアニア、北米、そして南米も。多目的型の助成財団ということでいろんな分野に助成してて、その気になれば何にでも仕事と関連付けられるので、本も経費で実質買い放題、面白そうな研究者とかNPO関係の人とかとも経費で会食しまくり呑みまくり。古き良き時代でした。

2006年入職当初は研究助成プログラム担当。組織内の人繰りの都合もあり、3年目くらいからその責任者に。
2011年3月11日、驚天動地の東日本大震災が起こって、急遽国内助成プログラムの責任者に異動。トヨタ財団でも何かできることはないかと、被災地支援に特化した助成プログラムを策定。東北の地を繰り返し訪れる。

2013年7月 JICAボランティアとしてブラジルへ

院生としてインドネシアでフィールドワークをしてたとき、青年海外協力隊で来ていた同年代の隊員たちととっても仲良くさせてもらってて、いつか自分も行きたいと思っていたのである。彼ら・彼女らとは今でも親友。
本当はもっと早く行くつもりだったのだけど、東日本大震災が起こってその復興支援に駆け回ってて、自分なりに使命感持ってやってたので、タイミングを逸していた。
二年経ってどうにか後を引き継げるような状況になって一段落ついたので、職場とも交渉し、満を持してブラジルへ。
現職参加、つまりトヨタ財団に籍を置いたまま二年間のブラジル行きを認めてくれた。いろいろあったけど、なんだかんだで度量の広い職場です。

赴任地ポルトヴェーリョでは日本語教師として活動。加えて、太鼓やったりサッカーしたり合気道教えたり。休みの期間には南米中を回ったり、かの地で開催されたワールドカップを観戦したり。
(活動中、藤田ラウンド先生の研究プロジェクト「多文化共生を再考する」にAuthor:Diegoとしてちょこっとお手伝い

サンパウロ近郊に派遣された他の多くの同期たちは、いわゆる日系人の多く住む日系社会での活動だったのだけど、アマゾンの奥地であるポルトヴェーリョで日系人の数はごく僅か。
日系と非日系の区別もなく、ナマのブラジルを丸ごと経験できた二年間は、20代のインドネシアと並ぶ30代のハイライトです。

2015年7月 2年ぶりに帰国してトヨタ財団へ

国際助成プログラムの責任者として復職。アジアを中心に、各国・各地で旺盛な助成活動。
優秀な同僚たちにも恵まれました。大変にありがたいことである。
(参考:対話企画『理解から共感をもたらすものとは?』

2019年2月 サンティアゴ巡礼(カミーノ)

不幸にも若くして亡くなってしまった同僚の旦那さんがお元気な頃に行ったことがあって、繰り返しその良さを聞かされていたのである。
幸い2ヵ月ほどの余裕ができたので、今行かずにいつ行くの。
フランス人の道、900kmを32日間で。かけがえのない経験となる。
誰かれ構わず勧めまくってる。一度は行くべし。

2019年4月 東京藝術大学演奏藝術センター准教授

トヨタ財団に愛着はありつつも、研究助成、国内助成、そして国際助成と主要プログラム全てで責任者を数年ずつ一通りやらせてもらって、あとは惰性でそのサイクルを続けるか、あるいはさして魅力を感じない管理職的なポジションに収まるか。何というか、ちょっと飽きがきちゃったんですね。で、何となく次は大学かなと。

地域研究のバックグラウンドと、プログラムオフィサーとしての経験で、それらに関連する分野でどっかポストが出ればなあと長期戦覚悟でゆるく考えていたのだけど、日程的に最初に公募出てて最初に受けた面接であっさり採用決まる。

主たる業務は舞台や演奏会の企画制作プロデュース(と授業と膨大な雑務)。別に音楽で業績があるわけでもないし、なぜ採用に至ったのか今もって不明。一番驚いたのは本人。ご縁としか言いようがない。
敢えて邪推するなら、見境なく雑多なことに首突っ込んでたのを見込まれたのであろうか。

物理的に移動すること、越境することが日常だった自分にとって、ホールといういわば固定的な空間を軸に考える、ということに新鮮みと一抹の戸惑いを覚えつつ日々彷徨。ま、これも一つのフィールドワークよな。

(随時更新予定)

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