谷川俊太郎さんが92年の人生に幕を閉じられたという。
特別ファンだ、という自覚はないが、何だかんだで詩集は身の回り常備されていて、手持ち無沙汰なときについパラパラページをめくってしまうほどには当たり前のような存在として私のなかにある。
20年前、多くの人々と同様、ネスカフェのCMには清冽な感銘を受けたクチだ。
かっきくけっことか、大好きって手をつないで歩くことは、子供たちが今よりさらに小さい頃、毎日のように読んでた愛読書であった。
絵本作家や翻訳家としての氏ももっと評価されていいと思う。いや、実際されてるんだろうけど。
氏の作品や業績についてはいろんな人がいろんなこと書いてるだろうから出る幕はないとして、
ここでは、他でほぼ触れられることのないであろう別のことを記しておきたい。
谷川俊太郎さんとは一度もお会いしたことはない。が、人生で一瞬交差したことがあった。
2009年、ということはもう15年前である。
前職であるT財団時代に、季刊の広報誌を発行することとなった。
その創刊号の巻頭言、すなわち今も途切れず続くその広報誌の、文字通り最初のページに、詩を寄せてもらったのである。
知る限りどの作品集にも収められていないので、ここで紹介しちゃおう(こちらに全文公開されている)。
「幸せです」
風が吹いている
遠くに凧が揚がっている
私は病院のベッドの上
でも私は幸せです
他人の不幸を忘れていられるほどに
余命半年と言われた日も
ひいきのチームが勝つのをテレビで見て
そうとは気づかず私は幸せでした
これは錯覚だろうか
自分勝手な思いこみか
ぶきっちょで不細工で
仕事でもヘマばかりして
馬鹿にされて女にふられて
おみくじで大凶引いて
挙句の果てに病気になって
やっと分かった ずっと幸せだったんだと
不幸には無数の理由があるけれど
幸せに理由はない
いまここで私 本当に生きています
雲を見て枕元の花の香りをかいで
私は幸せです
当時谷川さんはまだまだ意気軒昂だったはずだが、なぜか病院のベッドの上、そして余命半年というシチュエーション。レアである。
思わずたまげたね。創刊号に余命半年をもってくるこのセンス(笑)
特にそんな深い意図もなかったんだろうけど。
そもそもなぜ谷川さんに巻頭言をお願いしたのか。
実は氏はかつてその財団の、1970年代末から90年代にかけて継続的に実施された「身近な環境を見つめよう」と題された研究コンクールに、審査委員として参加してくれていたことがあるのだ(第3回、1983~87年)。
今のようにNPOやボランティアといったソーシャルセクターが活況を呈する遥か前の話。
いわゆる研究のプロではなく、市井の人びとによる環境問題への取り組みを促すこのプログラム、当時としては画期的なものであったと推測する。
歴代の審査委員を見ると、谷川さんの他に林雄二郎、日高敏隆、赤瀬川原平、播磨靖夫、嘉田由紀子、延藤安弘……錚々たる面々である。
そして当時財団の求めに応じて谷川さんが作ったというこちら。
なにかを不思議に思ったら……
なにかを美しいと思ったら……
なにかをこれじゃ困ると思ったら……
それがもう研究の始まりです。
みつめる、考える、話し合う、歩き回る、手でさわる、筋道を立てる、
試行錯誤おおいに結構、結論が出なくてもいい、挫折も必要、けんかも楽しい。
研究は人生の数多い喜びのひとつです、
知ることの快楽が、いつの世にも人間を未来へと向かわせてきたのです。
研究は専門家だけのものではありません。
「身近な環境」は、専門家まかせにするのではなく、
わたしたちひとりひとりが自分の問題として取り組んでいくものではないでしょうか。
あなたがたもこの新しい知的冒険の世界に参加しませんか。
これまで応募してだめだったチームも、途中でリタイヤーしたチームも、
ぜひ再度チャレンジされることを期待します。
応募の締め切りは19*年*月*日です。
募集要項の表紙に記されたこの文言。
私は、これは研究というものについて書かれた最も美しい言葉ではないかと今でも思っている。
私が入職したのは2000年代半ばなので、このプログラムもすでに過去のものになっていたのだけど、この要項をファイルの奥から発見したときの衝撃を今でも覚えている。
何枚もコピーして各所に保管したので、今もダンボールの山のどこかに埋もれているはずだ。
知的冒険への最大級のエールに祝杯を。
心安らかに合掌。
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