本が好きだ。
中学から下宿生活を始めて当時一人時間だけはあり余っていて、部屋にテレビがない時期も多かったので、暇つぶしといえば本(かラジオかサッカー)だった。
だから大学行くか、となったときも文学部くらいしか選択肢として思い浮かばなかったのだ。
二十代後半になってようやく就職した頃は調子乗って月に何万も本に費やしていた。
が、経済的のみならず物理的なスペースにも限界を迎えてからは図書館を多用するようになった。
2013年にブラジルへ渡る際、数百冊を自炊、別の数百冊を断腸の思いで廃棄、残りの数千冊を実家に送り返したが、それなりに広さのある実家の結構なポーションを、私の数十箱の段ボールが占拠する結果となった。今更ながら、親にも非常に申し訳ないことであった。
今の住居は家族もいてますますスペースに限りがあるので、月に買うのは吟味を尽くしたせいぜい数冊程度とし、あとはひたすら図書館である。
区の図書館は一人10冊まで。子供名義のカードをほぼ私物化しているので自分のと合わせて20冊。基本、フルに枠を使っている。
加えて、ありがたいことに職場にも図書館があってこちらは30冊まで。そのうち何だかんだで20冊くらいはいつも借りている。
なので合計40冊前後の図書館本が常時家か職場か鞄のどこかにあって、返却期限と日々無駄に格闘している。一体何をやってんだか。
どこかで紹介されててとりあえず借りてみた『夜を乗り越える』。
又吉直樹さんの真摯さに心打たれた。
ここで語られているのは本への愛、文学への愛、そして太宰への愛だ。
『人間失格』は、十代の頃に読んでその過剰な自意識に「わ、これおれやん!」と自らを重ね合わせた。
ここまでは自分も又吉さんも同じである。
が、そこから私は他の代表作と言われる作品をいくつか読んだ程度で、又吉さんのように太宰治の全作品を渉猟する、ということはなかったと思う。
切実さ、向き合い方の度合いが雲泥の差だ。
本書で又吉さんが「全部が入っている小説」と絶賛する町田康さんの『告白』を十数年前に読んだときも、衝撃を受けたし、爆笑もしたし、城戸熊太郎の自意識が身につまされたけど、又吉さんほどの切実さを持って受け止めてはいなかった気がする。
大学院を出てから、十数年実務の世界で働いた(今もだけど)。
何か始めるとき、まず終着までの見通しを立ててみる。そこから逆算して最短ルートで攻略していく。
仕事なんて基本的には、そうやって計画立てたり優先順位つけたりして、限られた時間で効率よく要領よく進めていく方が良いに決まっている。
で、我ながら、それなりに実務の適性が自分にはあってしまった。結果、良くも悪くもそのやり方にいろんなところが浸食されてる。良くも悪くもというか、実生活を営む上で、ほとんどの場合それは大変に良いことなのだ。
おかげでかつて同居してた居心地の悪さみたいなものをポーンと外に放り出して、日々快適に生きている。
でもその弊害も確かにあって、仕事に限らず何か新しいことを始めようとするときに最後まで先走って見てしまう。見えてしまう。結果、今なんて、オチまでの道筋と結末時点のイメージが見えたら、実際にやる前から飽きちゃうことすらあるくらいだ(笑)
紆余曲折を経て、今は芸術を生業として生活が成り立っている。半分趣味みたいなもんだ。妻ももうすぐ、前から自分の行きたかった分野に転職するという。子供たちももう、文句なしに世界一かわい過ぎて困っちゃうほどだ。
つまりはこの不条理だらけの世界で何だかんだで身の回りは恵まれていて、何となくうまいこと落ち着いて、かつては過剰すぎた自意識もしゅんと収まっちゃってる感じよ。
その点又吉さんはどうだ。
芸人としても作家としても名を成しながら、いまだにこの居心地の悪さと同居し続けてる。対峙し続けている。その不器用さ、真摯さに大いに心打たれたのだ。
『劇場』にはいたたまれないくらいやられたけど、その深淵を垣間見た。
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